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江戸の科学者列伝 西欧近代科学とはじめて向き合った 孤高のニュートン学者 志筑忠雄

通詞から学者の道へ

 志筑忠雄は宝暦十年(1760年)、長崎の資産家である中野家に生まれた。幼い頃に稽古通詞志筑家の養子になり、安永五年(1776年)には養父の跡を継いで志築家八代目の稽古通詞となった。稽古通詞とは通訳見習いである。しかし通詞としての務めは短く、翌年には病身を理由に職を辞した。

 忠雄は生来体が弱く、多病質だった。通詞の職を退いてからの忠雄は本姓の中野姓にもどり、柳圃と名乗った。この名前は病弱をあらわす「蒲柳の質」からとったものだというから、病弱はつねに自覚していたのだろう。

 辞職の理由については、ほかに会話が苦手(「口舌の不得手のため」)だったという説もあるが、真偽ははっきりしない。

 いずれにしても以後の忠雄の歩みを見ると、どちらの理由も辞めるための口実だったように思える。生来、学者肌の忠雄は、わずらわしい仕事を避けて学問に専念したかったのだろう。

 その後は、同じ長崎通詞で天文学者の本木良永について天文学を学んだ。

 本木は忠雄と同じオランダ通詞で、西洋の自然科学書を翻訳してその知識を日本に持ち込んだ。とくにオランダ語の天文書の翻訳を通して、コペルニクスの地動説を最初に紹介したことで知られている。ただしその内容は西洋の奇説として取り上げるにとどまり、天文学的な理解が及んでいたとはいいがたいものだった。

 その後は自宅にこもって暦学、オランダ語学の研究に没頭した。

 忠雄がニュートン科学にめざめるきっかけを与えたのは、イギリスの自然哲学者ジョン・カイルの著作だった。カイルはニュートンの信奉者であり、オクスフォードの教授としてニュートンの物理学を講じるとともに、多くの著作をあらわしてその啓蒙に努めた。

 ラテン語で書かれたカイルの著作はオランダの医師ヨハン・ルフロスによって翻訳され、日本に伝わった。それを読んで新しい自然観・世界観を知った若き通詞は、その翻訳を生涯の仕事にしようと決意したのだった。


写真/早稲田大学図書館

 忠雄が訳したカイルの著作には『天文管窺』『動学指南』『求力法論』『暦象新書』などがあるが、中でも代表的なのが『求力法論』と『暦象新書』の二著である。

関連用語

本木良永
江戸時代の蘭学者(1735-1794)。『天体二球用法』で、日本にはじめて地動説を紹介。

『新世紀ビジュアル大辞典』学習研究社刊より

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